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仏教の歴史

【最澄と空海】 百済から仏像伝来|天台宗と密教

 

こし庵
どうもネズミブロガーのこし庵です。むかし仏教は、朝鮮から来たんだね...知ってた?

 

西暦五三八年、百済(くだら/ひゃくさい)

古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満洲地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国が、それぞれ存在していた。

百済の聖明王せいめいおうの使者が仏像、仏具、経典を持ってきました。天皇は,これを蘇我稲目そがのいなめにあずけ、稲目は小さな伽藍がらん(寺院)を立てて、毎日礼拝していたところ、国中で疫病えきびょうが流行り、物部氏もののべしに伽藍は焼かれ、仏像は流されてしまいました。
仏像が疫病の原因とされてしまったからです。

三十年後 五八四年に、百済からの使者が仏像をまた、持ってきました。稲目の息子の蘇我馬子そがのうまこは、りっぱな伽藍を立てて、高麗こうらいから仏教の教えを伝える修行者、三人の尼と礼拝していました。

しかし、翌年に疫病が流行り、またもや伽藍と仏像が、焼き払われてしまいました。しかし疫病はおさまらず、なおも国中に広がり、もしかして仏像を焼き、尼僧をムチで打った祟り、野蛮な行いをしたことが原因で、「仏さまの怒りにふれた」と思う者が増え、国中で、ほとけを大切にあつかうようになりました。(物部氏は仏像を難波の堀に投げ込んだようです。)

 

五八五年、用明天皇が即位、三宝帰依さんぽうきえ(仏門に入って、仏や僧団の教えに従うこと。仏教徒になることがゆるされました)その後、用明天皇が病でお亡くなり、蘇我馬子は仏教反対勢力の物部氏と争う事となり、馬子は今までの恨みを晴らすかのように、物部氏を壊滅しました。

 

五九二年、推古天皇が即位しました。女性であるがため、甥の聖徳太子を政治のおもて舞台に立たせました。聖徳太子は、仏教の立場に立って世間の歪みを正そうと、六〇四年「憲法十七条」を発布しました。
六〇七年 小野妹子おののいもこが大使として、遣隋使一行が隋の皇帝、煬帝ふようだいのもとへおとずれました。皇帝は国書の文面に、聖徳太子の、ただならぬ人格を感じ、偉大な指導者として国交を始めたそうです。

六二二年二月二十二日 日本仏教の礎を築いた、聖徳太子が薨去されました。

六四五年 大化の改新、孝徳天皇は「仏教興隆」のふみことのりを下し各地で法会や経典の講説が、おこなわれました。またお盆行寺の始まり盂蘭盆会うらぼんえもおこなわれたそうです。

六八五天武天皇は家ごとに、仏舎を作り仏像を祭りなさいと、詔を下しました。

 

南都七大寺

 

七五二年 東大寺で大仏の開眼供養が盛大におこなわれ、その後奈良の都は寺院建築で繁栄しました。薬師寺、元興寺、大安寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺これらの寺院は奈良仏教のシンボルとなりました。

七五四年四月 唐の国の鑑真がんじんにより東大寺の仏殿で授戒(仏門に入る者に、仏弟子として生きるための戒を授けること)南都の各寺には六の学派があり、どの寺で学ぶのも自由でした。三論宗、法相宗、華厳宗、律宗、成実宗、倶舎宗、若い層は希望に燃えて、修業に励んだそうです。しかし、この時代、政治にゆ着した僧侶が、朝廷を操り、野心から天皇になろうとした計略が明るみになり、関係者は流罪になりました。

 

最澄と空海

 

七八五年 東大寺で授戒を受けた最澄さいちょうは、真の仏教を求めて、比叡山に入山し山林修行者と修行をしていました。いつしか多くの同志が集まり、一つのグループでき同志たちと一条止勧院いちじょうしかんいんを建て、「法華経」を真実の仏教と考え、唐の国で学ぶ決心をしました。

 

七九二年 長岡京にある大学で空海くうかいは貴族出身者と共に学業に、専念していました。しかし、仏教の教えの素晴らしさに気付き、山林修行者と五年間、修行に専念した後、唐に渡り「密教」を学ぶ決心をしました。

 

八〇四年七月 二人はを目指して出港しました。嵐に遭遇するも船団は無事に到着、最澄は台州たいしゅうに行き、中国天台第七祖の道遂どうすいに会い天台仏教の奥義と大乗仏教菩薩戒だいじょうぶつきょうぼさつかいを授かりました。また、天台山に登って、天台教学を学び、越州順暁阿闍梨じゅんぎょうあじゃりさまから、密教を学んだ。八か月の修行後、最澄は帰国しました。

 

空海は長安サンスクリット語をマスターし、バラモン教の哲学を学び、恵果阿闍梨けいかあじゃりさまから、密教の本質は「真言は翻訳せずに、梵語のまま唱える」ほとけも梵語で語られました、だから凡夫も梵語のままに、ほとけの言葉を唱えれば凡夫も、ほとけと一体化になれると教えられました。八〇五年八月 青竜寺で恵果阿闍梨から伝法潅頂でんぽうかんじょうを受けた、入門してわずか二か月でした。密教のすべてを伝授された空海は八〇六年六月帰国しました。

帰国後の最澄は、比叡山に延暦寺を建立し、天台宗を教え回るが、桓武天皇が亡くなられた後は、人々は密教を求めて次第に天台種から離れて行った。密教を学んできた最澄であったが、最澄は空海の素晴らしい経典御請来目録ごしょうらいもくろくを見て、密教は空海から学ぶしかないと考え、密教経典を借り、次に『理趣釈経』...りしゅしゃくきょう修行をせずに、経典を借りて学ぼうとしていた最澄は、空海に密教の真理を知るなら、密教僧として修行をしなさいと言われました。ふたりの関係はここまでとなりました。

八二二年六月四日 最澄の死後七日後に、最澄が最も力をそそいだ、大乗戒壇設立ふだいじょうかいだんせつりつの勅許が比叡山に、届けられました。

唐の国で土木技術を学んだ空海は、始終決壊、氾濫する万濃池(香川県)の工事を三か月で完成させて、農民たちから絶大なる支持を得られました。八一六年 密教修行の道場に高野山を賜り、 八二三年 空海は嵯峨天皇より、真言宗の道場に東寺を預けられました。八二八年 空海は日本で最初の庶民の学校、綜芸種智院しゅげいいんしゅちいんを開きました。

八三五年三月二一日 空海は高野山奥の院で、入滅しました。

 

虚空も尽き
衆生も尽き
涅槃も尽きたとき
そのときはじめて
わたしの願いも尽きる -空海

 

わたしのやり残した事は弟子の円仁に頼みました。唐の国で密教を学び天台宗の充実を。最澄

 

こし庵
最澄さんは密教を弟子に託して亡くなったんだね

 

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