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仏教の歴史

【ガンジー】中国から密航|日本仏教に戒律を伝えた鑑真和上

        大富豪の仕事術(著者:マイケル・マスターソン)

 

唐の高僧 鑑真がんじん(688~763)

 

 

こし庵
1300年前の奈良時代東シナ海を渡り中国大陸から苦難苦難の連続でも日本に来てくれたんだね 6回目の挑戦で成功したんだよ

 

ガンジーくんは正しい仏教を伝えるために死の覚悟で日本へ来たんだね
シャカ

 

中国中部 長江ちょうこう下流のまち揚州ようしゅうは唐の時代アジア各国との交易が盛んに行われていました、いまでいう国際都市です。
688年に鑑真は生まれー701年14歳で出家しました。そのころ漢の時代にインドから伝来した仏教は唐の時代で黄金期を迎えていました。唐の国を乗っ取り中国史上初の女性皇帝になった則天武后そくてんぶこう(690-705)は『私の統治権とうじけんは仏により与えられたものである衆生を救済し天下を教化する』当時の仏教が政治と癒着していた事が伺えます。

707年鑑真は多くの高僧と仏教の盛んな都長安に移り仏教のかなめである経・律・論を7年間学びました。


経/ 釈迦の言葉を集めた経典  律/ 僧侶が守るべき道徳や生活習慣  論/ 釈迦の言葉を解説・解釈した書物

その後、唐に戻り修行僧の育成に辺り多くの寺院を建立し4万人の弟子を育てたそうです。742年10月55歳になった鑑真は揚州の、大明寺で弟子の育成をしていました、そこに日本から遣唐船で学問僧の普照ふしよう栄叡ようえいがやってきました「日本には唐と同じ正式な仏教を指導する人がいません」指導者に来てもらえないでしょうか、二人の朝廷からの任務は鑑真に日本での正しい仏教の指導を頼むことだったのです。
しかし、遠い日本まで荒れ狂う東シナ海を渡らなくてはならず、弟子は誰一人として願い出る者はいませんでした。そして鑑真、自ら死の覚悟を持って日本に行くことを決断しました。当時の玄宗皇帝げんそうこうてい(在位712-756)は道教を尊重し仏教が敬遠されてきていました。鑑真は日本での仏教の教えを広めようと考えたのかもしれません。

 

なぜ鑑真が選ばれたのか

普照と栄叡は鑑真と会う(9年前733年)に唐に入り、すでに洛陽らくようから日本へ遣唐使船で高僧を送っていたそうです。752年(天平勝宝てんぴょうしょうほう4年)の東大寺大仏開眼供養会とうだいじだいぶつくようえで高僧たちは導師をつとめていました。

なぜ鑑真が選ばれたのか!それには日本の政治背景が絡んでいました。仏教伝来から200年後の日本の朝廷は民衆へ祖・庸・調以外に寺院建立の労役も課せていた、その中で民衆は正式な手続きもなく納税義務のない僧侶になる者が後を絶たない状況であり
1万人にも及ぶ「私度僧しどそう」と呼ばれるにわか僧侶が増え、仏教の根幹を揺るがしていました。
そこで朝廷は「授戒じゅかい」の導入をしました。授戒とは出家の前に高僧たちの前で僧侶になるための道徳と戒律を守る、誓いを立てることをいいます。

戒/ 人を殺してはいけない 盗みをしてはいけない 淫らな行為をしてはいけない
律/  僧侶が守るべき生活の規則(250項目)

日本には戒律の詳しい僧侶がおらず唐の鑑真が選ばれたのです。唐の則天武后が仏教の菩薩戒という戒律を選び大乗仏教の教えを政治の柱とし自分の権威を強化しました。聖武天皇しょうむてんのうはそれを聞き菩薩戒に大きな興味を持ち、則天武后に授けた高僧の直弟子の鑑真が選ばれたのがいきさつなのです。

菩薩戒とは「さまざまな戒律のひとつでこれを受けた者は菩薩となり悪をおさえ善を修め
人々のために尽くす存在となる」という事です。

 

密航

 

唐では許可のない海外渡航は禁止とされていました。鑑真は密航を選びました。743年56歳 地元有力者に船を作ってもらうが計画が漏れ没収、失敗。743年同じく2度目の挑戦は鑑真みずから船を調達、12月に出航しかし船は嵐により座礁、一行は海に投げだされるも、なんとか岸に辿り着いて一命をとりとめた。
3度目も4度目も弟子の密告により失敗、5度目748年鑑真61歳出航したが又も嵐にあい漂流…

荒れ狂う大波で皆激しく船酔いし、苦しみ横たわるしかなかった
船にはもう水がなく塩水を飲むと腹が膨れた一生でこれより苦しいことはない」東征伝より

船は出航した揚州より南の海南島に漂着してしまいました。鑑真一行はこの海南島の大雲寺で一年近く過ごし、その間村人たちに学問と仏教を教えたそうです。

歩いて揚州にもどる途中、栄叡が病に倒れ亡くなり、普照も鑑真の元を離れました。
鑑真一行は炎天下のなか揚州を目指しましたが鑑真は旅の途中で視力を失ってしまいました。もう日本に行く事は不可能に近い状況でしたおそらく鑑真は日本行きは、もう無いであろうと考えていたと思います。

753年揚州に日本からの遣唐使が鑑真の元に訪問し、またも日本への渡航を促されました。
鑑真66歳日本行を決めてから11年の歳月が立っていましたが鑑真はこれが最後になると決意し鑑真一行は遣唐使船に乗り込みました。一行はひと月余りで日本の薩摩国屋浦に到着753年鑑真66歳でした。

天平勝宝てんぴょうしょうほう6年(754)2月 鑑真一行は奈良平城京に到着

聖武太上天皇
しょうむだいじょうてんのう
から詔を受けた「鑑真和尚は遠く大海を渡りこの国へ入られた喜ばしさ喩えようがない」東征伝より

これより戒を授け律を伝えることは和上に一任する」東征伝より

鑑真は日本で初めての戒律師かいりつしに任命され
聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇鑑真より菩薩戒を授かりました

奈良 東大寺に戒壇院かいだいいんを設立(戒律を守る為の儀式を行うところ)
戒壇院で授戒を受けた者のみ僧侶になることを許されました

天平宝字てんぴょうほうじ2年(758)鑑真71歳 大和上(偉大な戒律の師)の称号をもらい東大寺より事実上の引退をしました。
翌年、唐招提寺とうしょうじを開き多くの修行僧にお釈迦さまの教えを伝え、また鑑真が日本に来た理由は広く一般の人々にもお釈迦さまの教えを伝えることだったのです。

天平宝字7年(763)5月6日鑑真は西の極楽浄土をむいたままこの世を去りました 享年76歳

 

うれうることをもちいざれ よろしく方便ほうべんを求めて 必ず本願遂ぐべし」東征伝より
心配しなくてもよい しかるべき手立てを求めるならば 必ずや願いは遂げられるであろう

鑑真和上が日本の仏教界に与えた影響は極めて大きかった、命を賭けた鑑真和上の日本来渡は、日本仏教の礎を確立し本来の姿を取り戻すことができた、まさに日本仏教の恩人である。

 

こし庵
鑑真さんは仏教の教えを僧侶だけでなく広く大衆にも教えてくれたらしいですよ
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