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仏教の歴史

「玄奘三蔵」灼熱(しゃく)・黒砂漠 さいはての仏を求めて

        大富豪の仕事術(著者:マイケル・マスターソン)

 

 

 

こし庵
仏教に関する書物(仏典)は大きく「経」「律」「論」と3っに分類されていて「経」はお釈迦さまが説いた教え。「律」は仏教教団のルール。そして「論」は論文。それらを習得した高僧を「三蔵」と呼ぶんだよ

 

玄奘三蔵は602年、河南省(かなんしょう)陳留県(ちんりゅうけん)の生まれ、4人兄弟の末子、姓は、名を(い)といい父の名前は(え)といいました。

13歳で出家、洛陽にある浄土寺で兄の長捷(ちょうしょう)と『涅槃経』『摂大乗論』を学び、20歳で成都で授戒し正式な層になったそうです。

 

灼熱の砂漠、仏教の経典を求めて

 

629年、玄奘27歳無上の仏法を求めて天竺へ挑む旅に出るのです。出国禁止であった長安を抜け出して、涼州(りょうしゅう)甘州(かんしゅう)瓜州(かしゅう)まで来たところ恐怖で仲間たちは逃げ、自分の馬も死んでしまい、困り果てているところに天竺(インド)までの道に詳しい老人と出会い、馬をもらい受け、案内人と一緒に唐の国の最西端の関所である玉門関を抜け国外へ出ることができました。

 

 

ここから玄奘は一人で旅に出るのです。しかし関所にはすでに不法出国した玄奘の通達が回っており、幾多の危険に合いながらも関所の隊長王祥(おうしょう)に勇気と崇高な存在を認めてもらい、手厚い施しを受け次の旅に出ることができたのです。

玄奘はハミ国カラス―ジャ(高昌国)を目指して、ゴビ砂漠の旅を続け、恐怖の莫賀延碩(ばくがえんせき)800里に向かいました。草も木も生き物と会うことのない砂漠を、水も食料もない状況で5日間、蜃気楼と砂漠の灼熱の暑さで幻覚を見ながら西へと向かいましたが玄奘はとうとう倒れてしまいました。

もうどうする事もできなくなった5日目の夜に、砂漠に涼しく冷たい風が吹いたのです、息を吹き返した玄奘は、力を振り絞って夜が明けて暑くなる前に出発しました。そして、その先10里程進んだ所に泉を見つけ、奇跡的に命をつなぎとめることができたそうです。生きる力を得た玄奘は残りの旅に出発しました。
(馬が勝手に泉の方に向かって行った。と書いてあるものもありました)

上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なし。また水草なし。このとき影を顧みるに唯一のみ玄奘の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』

そこから更に旅を続けて2日目、ついに玄奘は800里も続く莫賀延碩を抜け、ハミ国を通りカラス―ジャ(高昌国)へと足を踏み入れたのです。

高昌王である麴文泰(きくぶんたい)は、熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしましたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助するとともに、兄弟の契りを結び、帰途の折には必ず会う約束をし玄奘の旅を見送りました。
しかし、この約束は果たせる事はありませんでした、この国は唐によって滅ぼされ王はこの世を去っていたのです。

 

玄奘三蔵像
東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重文
尊称 三蔵法師
生地 緱氏県
宗派 法相宗
寺院 大慈恩寺
戒賢
弟子 道昭
著作 大唐西域記ほか、仏教典多数
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シルクロード いざ天竺へ

 

玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて、天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに向かいました。

途中、天山山脈の凌山は真夏でも雪深く、極寒地獄のような気候で7日間の雪路の峠超えで40人程いた一行は3分の1が凍死してしまいました。
旅の大難を超えた一行は一安心し、シルクロード本街道を一路西南に進み、ついにバルク手前の鉄門に到着、突厥(とっけつ)地方を抜けることができました。

鉄門を抜けバーミヤンの大石仏仏跡を巡拝しながらナガラハーラのアショーカ王建立の仏塔からインダス河畔のガンダーラに至りました。その後カシミールに到着、ここで2年間この地の高僧について経典サンスクリット語を学び、その後東南に向かいカピラバスティ国を巡礼し、旅の目的地マガダ国ナーランダー寺に辿り着いたのです。

玄奘はナーランダー仏教大学で念願の『瑜伽師地論』(ゆがしじろん)を当代最高の師から学び、玄奘は10年掛かる経典を3年でマスターしました。玄奘は10年の歳月をかけシャカの教えを学び、その間、彼の才徳は広く知れ渡り、学才は内外の典籍に及び徳は一世を風靡するに至ったそうです。

その才徳はインドを統一したハルシャバルダナ王、東インドのクマーラ王も厚い信頼を寄せる程であったらしいです。

5年の研究学後に4年程インドを周り
「瑜伽師地論」「順正理論」「兼揚論」「阿毘達磨」「因明」「声明」「集量」「中論」「百論」…などシャカの教えを学び帰国を決意するのです。

 

641年 帰国の決心

 

本国へ帰って、これまでの旅で集めた仏典を翻訳し人々にシャカの教えを広めなくてはならない、真の仏法を広めめなくてはならない。

唐の二代皇帝太宗は玄奘の出国の罪は問いませんでした。一早く翻訳事業に取り掛かり見聞を書物に表して欲しいと言われました。天竺から持ち帰った経典は657部その他、馬20頭にも及ぶ、沢山の仏舎利や仏像を持ち帰りました。

646年に玄奘は、旅行記『大唐西域記』(だいとうさいいきき)12巻を編纂(へんさん)しました。

『大菩薩蔵経』20巻 『仏地経』1巻 『六門陀羅尼経』1巻 『顕揚聖教論』20巻 『瑜伽師地論』100巻の訳業を2年ががりで行われ、648年から『金剛般若経』 『摂大浄論』に取り掛かり、この事業の拠点は後に新築の大慈恩寺に移しました。

『大般若経』600巻、74部1335巻にも及ぶ経典を漢訳し17年で1000巻以上もの経典を訳出したのでした。現在の経典も玄奘訳が使われて人々の間で広く用いられております。

664年4月玄奘が亡くなると、時の皇帝高宗は玄奘を国家の宝とし盛大な国葬で、送られたそうです。

 

こし庵
玄奘師匠は仏法のためなら、たとえ道なかばで死すとも悔いはないと、天竺への旅に出たんだね

 

 

 

大慈恩寺 Daci'en Temple

 

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