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曹洞宗

曹洞宗の開祖|道元禅師と瑩山禅師|お釈迦様の教えに生きる

 

 

曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師方によって相続されてきた「正伝の仏法」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。

そして坐禅の精神による行住坐臥(※)の生活に安住し、お互い安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

※「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。

 

こし庵
曹洞宗の本尊はお釈迦さまですよ!

 

お釈迦さま

 

お経の中に「南無釈迦牟尼仏」という唱えは、お釈迦さまの教えに生きるという誓いの言葉なのです。「南無」は古代インド語のナームを音写したもので仏教語では「帰依」の意味です。(拠り所・信仰)「釈迦」はお釈迦さまが生まれた国の名前、ガウタマ=シッダールタはブッタの本名で一般に、釈迦(シャカ)または釈迦牟尼(釈尊とも言う)と言われるのは、シャーキヤ族の出身からです。「牟尼」は聖者、尊者の意味です。「仏」は覚者の意味です。

真理を悟った釈迦族の聖者、ブッダを信仰して慕っていきます』ブッダ(仏陀)とは名前ではなく「悟りをひらいた人」を意味する称号です。

古代のインドで、シャーキヤ族の小国カピラ王国の王子として生まれ、安楽な生活を送り、16歳でヤショーダラーと結婚、男の子をもうけた。ガウタマは次第に生・老・病・死(四苦)に深く悩むようになり、29歳で家族を捨て、修行僧(沙門)となりました。ガンジス川の河畔で二人の修行僧に従い、6年にわたって断食などの苦行を続けたが悟りを開くことはできませんでした。心身の衰弱をスジャータという娘がさしだしたおかゆで救われ、苦行を捨てたガウタマはブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り21日目の夜明けに悟りを開いたのです。悟りをひらいた人、と言う意味でブッダといわれるようになり、その教えから仏教が成立しました。

お釈迦さまの教えの中に、八正道(はっしょうどう)というのがあります。

人生は生老病死の四苦をはじめとしてすべて苦である(一切皆苦)ととらえる。この人生の苦を解決するために苦、集、滅、道の四諦(四つの真理)を説く。苦諦(くたい)は人生はすべて苦であるという真理、集諦(じったい)は苦の原因は心の迷い、煩悩にあるという真理、滅諦は煩悩を滅ぼすことで苦を取り除くことが出来る真理、道諦は正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理、である。正しい実践とは、正しく見(正見)、正しく考え(正思)、正しく話し(正語)、正しく行動し(正業)、正しく生活し(正命)、正しく努力し(正精進)、正しく思いめぐらし(正念)、心を正しく置く(正定)の八正道です。

 

数々のお釈迦さまの教えを日本仏教に伝えてくれた方は誰なんでしょう

 

有名な方で菩提達磨(ぼだいだるま)達磨大師がおります。28代目の達磨大師が開いた禅宗は太祖慧可(たいそえか)、鑑智僧燦(かんちそうさん)、大医道信(だいいどうしん)、大満弘忍(だいまんこうにん)、と伝わり大鑑慧能禅師(だいかんえのうぜんじ中国禅宗の6祖)によって中国に広まり、清源行思(せいげんぎょうし)、石頭希遷(せきとうきせん)、薬山惟儼(やくさんいげん)、雲厳曇晟(うんがんどうじょう)という禅師に受け継がれていきました。

その後洞山良价(807年 - 869年)(とうざんりょうかい)によって受け継がれ、中国曹洞宗は、彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっています。

道元禅師の教え

 

曹洞宗は13世紀天童如浄禅師(にょじょうぜんじ)の時代に日本僧の道元禅師が修行され、後の日本曹洞宗として確立していくのです。

道元禅師は24歳で中国の唐の国へ渡り、常に真の師を探していました。天童山を去り2年間諸山を修行してまいりましたが、もはやこの中国には自分の真の師匠とは出会えないと思い帰国を考えていたところに、天童山、景徳寺に新しい住職として入られた如浄禅師(にょじょうぜんじ)のお話を聞いて、まさに自分の探し求めていた真の師と出会いでした。道元はすぐさま弟子入りするのです。

この時の気持ちを語っていました『自己の面目にあらず、如来の面目を面授せり』
如浄禅師と初めて会ったときに、今までの自分というものが全て消え去り、如浄禅師はいうまでもなく、お釈迦さまから脈々と受け継がれた祖師たちの人格を全てもらう事ができた。と語ったそうです。

 

「当下(とうげ)に眼横鼻直(げんのうびちょく)なる、ことを認得(にんとく)して郷に還る。ゆえに一豪も仏法なし。」

道元禅師のさとりです。「人はみな、目は横に並び、鼻は縦についている。これはごく当たり前のこと。なんら不思議なことではない。同じようにほとけの道も何も不思議もないことである。人は本来、ほとけになるべく種を宿しているのだ。この当たり前のことを了得した。だから立派な仏像や経典も持たず、空手で帰ってきた。」ということでしょう。

道元禅師は仏教や禅はなんら特別なものではなく、日常の生活において全ての行いが修行であると食事も風呂も洗濯、掃除もと示されております。

28歳で帰国後、京都の建仁寺や深草の案養院(あんよういん)に滞在して「普勧座禅儀」「弁童話」などの書を著し、道元禅師34歳のとき宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建て修行道場として曹洞宗が世に知れたのでした。興聖寺に9年、たくさんの弟子たちも増え「正法眼蔵」も完成し道元禅師の存在は揺るぎないものとなりました。しかし、興聖寺が火災で消失してしまい波多野義重(はたの よししげ)公の願いによって、越前(福井県)の山中、志比庄に大仏寺(だいぶつじ)を建立し、二年後に永平寺と改められたことに始まります。

道元は如浄禅師の教え、決して権力に近寄らず、世俗化した仏教を見直し、お釈迦さまの教え本来の精神に立ち帰ることを唱えました。

道元は54歳というあまりにも短い生涯でしたが、その間永平寺で帰依した修行僧数知れず、剃髪出家したもの300人余り、授戒された弟子700人を指導、育成し自らの著書を完成されました。

春は花 夏はホトトギス 秋紅葉 冬雪さえて 涼しかりけり

80人の弟子たちで名前の残っているのは永平寺2代~4代、大乗寺大慈寺宝慶寺(ほうきょうじ)・永興寺(ようごうじ)の開山の方々です。

瑩山禅師の教え

 

瑩山禅師(けいざん)は文永5年(1268年)10月8日越前多祢邑(えちぜんたねむら)の豪族、瓜生氏(うりうし)の長男として生まれました。幼名は行生(ぎょうしょう)父は了閑上座(りょうかんじょうざ)、母は慧観大師(えかんだいし)です。道元禅師がお亡くなりなって15年目のことです。

8歳で永平寺に入り、徹通義介(てつつうぎかい)の下で沙弥となり、1280年、13歳の時、師の勧めで永平寺2世孤雲懐奘(こううんえじょう)禅師に就いて、その最後の弟子として出家得度授戒を授けられました。

厳しい修行を送る中、道元禅師の弟子であった宝慶寺寂円禅師(じゃくえん)の元で修行をし、さらに二代目の懐 奘禅師(えじょう)が亡くなられた後、瑩 山禅師は、永平寺を出て、宗 派にこだわらず、さまざまな寺院をおとずれ修行ををして21歳で再び寂円禅師の元に戻り修行を続け、後に加賀の大乗寺におられる儀介禅師(ぎかい)の元で修行をするのでした。
瑩山もまた正師を探し求めていました。

儀介禅師から「平常心是道」(特別なところに仏の道があるのではない。日常あるがままの心が仏道そのものである)
この時の心境を「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す」喫茶喫飯ともいわれ、日常の当たり前の行いの中に仏の道、禅の道がある。瑩山禅師さまはここで、おさとりを得たのです。

儀介禅師の後継者となった瑩山禅師は、阿波(徳島県)に城満寺(じょうまんじ)、能登(石川県)浄住寺(じょうじゅうじ)、永光寺(ようこうじ)、光考寺(こうこうじ)を開き元享元年(1323年)定賢律師(ていけんりつし)より「諸嶽観音堂」(しょがくかんのんどう)を寄進され、これを総持寺と改めます。
1898年(明治31年)火災で焼失してしまい。1911年(明治44年)、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目の現在地に移転します。

著書に「伝光録」(でんこうろく)お釈迦さまから禅の道を受け継いできた禅師がどのようにして、次の世代に繋げてきたか。
「坐禅用心記」(ざぜんようじんき)坐禅中に起こる心の乱れの対処法。

多くの人々を救い、心の安らぎを与え、生きる力を授け、後に常済大師号(じょうさいだいしごう)が送られました。
1320年 後醍醐天皇(ごだいこてんのう)より「十種の勅問」が下され、すべてに奉答したことに対して総持寺を日本曹洞宗賜紫出世(しししゅっせ)道場に認められました。

正中元年8月総持寺を峨山禅師(がざん)にゆずり、永光寺に帰りますが病の身となり永光寺を明峰禅師さまにゆだね58歳の生涯を閉じるのです。(1325年8月25日)

曹洞宗の父を道元禅師とするならば、瑩山禅師は母であるとして、一仏両祖(いちぶつりょうそ)として祀られてます。

また今もなお、両祖の考え方やお釈迦さまの教え、学問や大衆救済の事業を、若い修行僧に全身全霊をかけ教えを説いている素晴らしい両寺院といえましょう。

 

坐禅の心得


禅は曹洞宗の修行、信仰の基本となるものです。お釈迦さまから達磨大師をへて代々受け継がれてきている坐禅は、正しいほとけの教えを求めて中国に渡り修行された道元禅師に伝わりました。

曹洞宗の坐禅は話す事も考える事もせずに座ることに集中します。姿勢を整え、呼吸を整え、頭の中にあるさまざまなな思いを受け流し心を空っぽにして、ほとけの心を修行します。

そのためには、坐禅の姿と心で生きることが、ほとけである(促進是仏そくしんぜぶつ)という自覚のもとで、ただひたすら坐禅する(只管打坐しかんたざ)ことです。
坐禅によって、ほとけを求めるのではなく、今の自分の心がほとけであると、いうことを坐禅を通して体得するのです。

 

【偈文】開経偈(かいきょうげ)

開経偈は、お経をお勤めする前にお唱えすることが多い偈文です。

無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)

我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

「このうえもなく深く、広く、そして尊い、み仏のみ教えに出会い、巡り合うことはありえないほど難しいことです
しかし私は今、み仏のみ教えを拝受けさせていただくことができました。このうえは、本当のみ教えを理解できることを心から願います。」

 

【偈文】懺悔文(ざんげもん)


我昔所造諸悪業
(がしゃくしょぞうしょあくごう)皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)

従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

私が、昔からの行いあやまちは、全て貧(むさぼり)、怒り、愚かさ(三毒)によるものであり、それは、全て私の身体の行い、口の行い、考えの行い(三業)から生まれ起きたものです。私は今、これらを全てを悔い改めます。

 

【偈文】三帰礼文(さんきらいもん)


自帰依仏
(じきえぶつ)当願衆生(とうがんしゅじょう )体解大道(たいげだいどう)発無上意(ほつむじょうい)

自帰依法(じきえほう)当願衆生(とうがんしゅじょう)深入経蔵(じんにゅうきょうぞう)智慧如海(ちえにょかい)

自帰依僧(じきえそう)当願衆生(とうがんしゅじょう)統理大衆(とうりだいしゅう)一切無礙(いっさいむげ)

「自分の意志で大いなる導師み仏を信じ信仰のよりどころとします。人々と共に祈ることは、大いなる仏の道を体得し、無上の悟りに向かうよう心から願います。
自分の意志で法すなわちみ仏の教えを信仰します。そして、人々と共に祈ることは、深く経典を学んで、海のような大いなる智慧を得られることを心から願います。
自分の意志で僧(仲間)を信じます。人々がみ仏の道を行く友として、争わなず、なにものにも妨げられない自由な世界を得られますように心から願います。」

 

【偈文】三尊礼文(さんぞんらいもん)


南無大恩教主本師釈迦牟尼仏。
(なむだいおんきょうしゅほんししゃかむにぶつ)

南無高祖承陽大師。(なむこうそじょうようだいし)南無太祖常済大師。(なむたいそじょうさいだいし)

南無大慈大悲哀愍摂受。(なむだいずだいひあいみんしょうじゅ)生生世世値遇頂戴。(しょうしょうせせちぐうちょうだい)

「私たちは曹洞宗の本尊、偉大なるお釈迦さま。日本曹洞宗を開いた道元禅師さま。曹洞宗の発展と基盤を作られた瑩山禅師さま。大いなる慈悲の心と哀れみを頂き、永遠に供養の真を捧げます。どうぞ、大いなる慈悲の心と哀れみを頂き、永遠に供養の真をささげられますようお願いします。」参考文献 (曹洞宗のしきたりと心得

 

【経文】魔訶般若波羅密多心経(まかはんにゃはらみつたしんぎょう)

【偈文】四弘誓願(しぐせいがん)

【偈文】在家略回向(ざいけりゃくえこう)

【経文】修証義(しゅしょうぎ) 第1章総序(そうじょ)第2章懺悔滅罪(ざんげめつざい)第3章受戒入位(じゅかいにゅうい)
第4章発願利生(ほつがんりしょう)第5章行寺報恩(ぎょうじほうおん)

【偈文】普回向(ふえこう)
願わくは此の功徳を以て、普(あま)ねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜんことを。

十方三世一切仏。(じーほうさんしーいーしーふー)
諸尊菩薩魔訶薩。(しーそんぶーさーもーこーさー)
魔訶般若波羅密。(もーこーほーじゃほーろーみー)

 

こし庵
この上のお経だけでも覚えてください。
そうそう、ここ大切な〆のお経です。
シャカ

 

【般若心経】の教えと【無苦集滅道】わかりやすくまとめました

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