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維摩経

大乗仏教から仏陀の精神を説く維摩経 【第三巻 弟子品まとめ】

        大富豪の仕事術(著者:マイケル・マスターソン)

 

 

『維摩経』(ゆいまきょう)が作られたのは紀元1~2世紀頃(日本が縄文時代ぐらいの頃)インドで興起した大乗仏教で作られました。お釈迦さまの入滅後に500人の僧侶たちが集結して、お釈迦さまの説法を編集していくのですが、出家僧侶だけの仏教(小乗仏教)に対する批判が生じてしまい、在家であろうと出家であろうと、男であろうと女であろうと、性別は問わない全ての人々で修行をしてゆこう、そして仏陀の教えと精神に帰ろうと若い人々が大乗仏教を作り分裂したのです。(今もなお現在に続いているのが大乗仏教です)

こし庵
維摩経は般若経典を物語形式に書かれたもので全部で14巻あります。

第一巻 仏国品と言います、維摩経の総論のようなもので、仏教の理想とする世界はどのようにしたら作れるのか、現世が浄土のように汚れなき世界を作るにはどのようにするのか説いています。

第二巻方便品で維摩居士とはどんな方か書かれています。

第3巻 弟子品はお釈迦さまの弟子たちが維摩居士の病気見舞いに行けと言われ、みな尻込みしてしまいます。
それぞれの理由の中に坐禅、説教、病気、道場、法施、仏教真理について維摩居士にやり込められた情景が書かれています。

第四巻 菩薩品で弥勒菩薩(みろくぼさつ)のことと、六波羅蜜のこと結局は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が維摩居士の病気見舞いに行くことになるのです。

第五巻 文殊師利門疾品(もんじゅしりもんしつぼん)は維摩居士とのやりとりで、入不二訪問(にゅふじほうもん)について法論を戦わしています。

第六巻 不可思議品というものがあり、一切のものを解脱してその解脱した境地をさらに解脱するということが書かれています。

第七巻 観衆生品(かんしゅじょうぼん)は人間の存在とはについて書いたものです。

第八巻 仏道品は仏の道はなんであるかということが書かれております。

第九巻 入不二法門品(にっぶじほうもんぼん)では、物を二つに見ない、しかも不二なのだから二つではない、二つでありながら二つでない、といった境地について書かれています。ややこしいですね。

第十巻 香積仏品(こうじゃくぶつぼん)では、仏の食物と無償の行為、償いなき行為、報酬を求めない行為について書かれています。

第十一巻 菩薩行品(ぼさつぎょうぼん)では菩薩とはどういうものか、それはどんな行いなのか、それは有無ともに超えることであると説かれています。

第十二巻 見阿閦仏品(けんあしゅくぶっぼん)では仏を見るということは自分を見る事だ、真実の自分を発見することと結論づけてます。

第十三巻 法供養品(ほうくようぼん)

第十四巻 嘱累品(しょくるいぼん)

とあります。

 

第3巻 弟子品まとめ

 

お釈迦さまは一番弟子のシャーリプトラ(舎利弗)に、維摩居士のお見舞いに行ってきなさい、といいました。
舎利弗は即座にお断り致しました。「私はかって静かな林の中で坐禅をしていたら、そこに維摩居士が通りかかって、お前の坐禅は間違っていると言われ、維摩居士の坐禅についての見解を長々と叩き込まれまして、私はご会いしたくありません。」

舎利弗は維摩に「ただ座っているのではなく、体を安定させ、心を安定させ呼吸を整え身息心一如に座らねばならない。
そして、三界において身意を表さない、つまり欲界、色界、無色界を表さず(くう)になりなさい。騒音の中でも心と身体がとけ合って一つになれる坐禅、身も心もけしてかく乱される事無く座りなさい」

舎利弗は、お釈迦さま私は黙ってきくだけで、維摩居士にことばを返せませんでした。ですから私はあの尊いお方の病気見舞いには行けません。

 

次に二番弟子の神通力第一といわれるマウドガルヤーヤナ(目連)にお見舞いお促すと、きっぱりと断られたました。

彼もまた過去、維摩にやられたのです。目連が街角で多くの居士たちに説法をしていた時に、維摩が現れて「そんな説法の仕方ではダメだ」と言うのです。それから懇々とやられたらしく、法を説く前に法とはなんであるかを知らなければならない、法というのは、生きとし生ける者を離れ、人格や姿がた形もない。法というのは文字でもなく言語を超え、時間ということもなく寿命もない、無相無形で相対的なことばで説いたり示したりはできない。法は実態がなく属性もなく空(くう)なることを意味し説明や議論では表せない、なので人々に説く前に自分みずから体験しなければいけないのだ。
相手の機根に応じて、大慈の心で相手の立場に立って説くが良い。と目連はやり込められた過去があるのです。

それからというもの目連はすっかり自信を無くして、会うのも避けていたのでした。

 

その次に呼び出されたのは、頭陀第一のマハーカッサパ、大迦葉(だいかしょう)でした。迦葉も辞退しました。

大迦葉が貧しい村で托鉢行をしていた時、維摩さんが現れ、こう言ったのです。「なぜ、金持ちの家を回らないのか、大富豪も貧乏も全ての衆生から平等にまわりなさい。金持ちと貧乏人を差別しているのではないか、道順に平等にやりなさい」と言われたのです。
「托鉢とは自分だけの修行ではなく施す人々の修行でもあり、人がものを食べるのは、食べることに執着しているのでもなく、肉体に執着しているのでなく、煩悩があるからでもなく、涅槃にたいする執着でもない。無の世界を目標に、自己本来の姿は無であるということを、なぜ托鉢を通じて悟らせないのだ」
受け取ることなく施食(せじき)を受け取ること。生まれつき目の見えない人と同じように色・形を見ること、木霊(こもれび)のなようなものとして声をきくこと、風と等しいものとして香りを嗅ぐこと、意識することなくして味を味わうべきこと、ものの姿や形にとらわれてはいけないということ。

最後に維摩は八邪を捨てず八解脱に入りなさい。八正道を根本において八邪を捨てることなく、邪念のままでも大乗仏教の心を忘れることなく正法に入りなさい。八正道と正反対であること、良いものも悪いものも二つ潜んでいること、一如不二の思想を持って托鉢をしろといわれたのです。

解空第一のスブーティ(須菩提尊者)しゅぼだいそんじゃ

説法第一のプールナ(富楼那尊者)ふるなみそんじゃ

論議第一カッチャーナ(迦旃延尊者)かせんねんそんじゃの

天眼第一のアニルッダ(阿那律尊者)あなりつそんじゃ

持律のウパーリ(優波離尊者)うぱりそんじゃ

密行第一のラーフラ(羅喉羅)らごらそんじゃ

多聞第一のアーナンダ(阿難尊者)あなんだそんじゃ

釈迦の十大弟子たちは、維摩にやり込められた苦い経験が忘れられず、お見舞いを断るのでした。

いよいよ釈迦も菩薩に頼むことにしました。

 

第二巻 方便品     第四巻 菩薩品

-維摩経

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