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維摩経

維摩経とは何?第一巻 仏国品まとめ

 

『維摩経』(ゆいまきょう)が作られたのは紀元1~2世紀頃(日本が縄文時代ぐらいの頃)インドで興起した大乗仏教で作られました。

お釈迦さまの入滅後に500人の僧侶たちが集結して、お釈迦さまの説法を編集していくのですが、出家僧侶だけの仏教(小乗仏教)に対する批判が生じてしまい、在家であろうと出家であろうと、男であろうと女であろうと、性別は問わない全ての人々で修行をしてゆこう、そして仏陀の教えと精神に帰ろうと若い人々が大乗仏教を作り分裂したのです。(今もなお現在に続いているのが大乗仏教です)

こし庵
維摩経は般若経典を物語形式に書かれたもので仏国品(ぶっこくぼん)から嘱累品(しょくるいぼん)まで全部で14巻あります。

 

第一巻 仏国品と言います、維摩経の総論のようなもので、仏教の理想とする世界はどのようにしたら作れるのか、現世が浄土のように汚れなき世界を作るにはどのようにするのか説いています。

第二巻 方便品で維摩居士とはどんな方か書かれています。

第三巻 弟子品はお釈迦さまの弟子たちが維摩居士の病気見舞いに行けと言われ、みな尻込みしてしまいます。
それぞれの理由の中に坐禅、説教、病気、道場、法施、仏教真理について維摩居士にやり込められた情景が書かれています。

第四巻 菩薩品で弥勒菩薩(みろくぼさつ)のことと、六波羅蜜のこと結局は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が維摩居士の病気見舞いに行くことになるのです。

第五巻 文殊師利門疾品(もんじゅしりもんしつぼん)は維摩居士とのやりとりで、入不二訪問(にゅふじほうもん)について法論を戦わしています。

第六巻 不可思議品というものがあり、一切のものを解脱してその解脱した境地をさらに解脱するということが書かれています。

第七巻 観衆生品(かんしゅじょうぼん)は人間の存在とはについて書いたものです。

第八巻 仏道品は仏の道はなんであるかということが書かれております。

第九巻 入不二法門品(にっぶじほうもんぼん)では、物を二つに見ない、しかも不二なのだから二つではない、二つでありながら二つでない、といった境地について書かれています。ややこしいですね。

第十巻 香積仏品(こうじゃくぶつぼん)では、仏の食物と無償の行為、償いなき行為、報酬を求めない行為について書かれています。

第十一巻 菩薩行品(ぼさつぎょうぼん)では菩薩とはどういうものか、それはどんな行いなのか、それは有無ともに超えることであると説かれています。

第十二巻 見阿閦仏品(けんあしゅくぶっぼん)では仏を見るということは自分を見る事だ、真実の自分を発見することと結論づけてます。

第十三巻 法供養品(ほうくようぼん)

第十四巻 嘱累品(しょくるいぼん)

とあります。

維摩経は近年1999年、大正大学の研究チームによってチベット・ポタラ宮の書庫でサンスクリット語写本が発見され一大ニュースとなりました。その経典のなかで教えを説くのは、在家仏教者でありながら悟りを開いたとされる、梵語でヴィマラキールティ「維摩詰」(ゆいまきつ)という名前の居士(こじ)を中心にしたお経なのです。文学性に富んだドラマ仕立ての構成になっているのもこの経典の特徴であり、大きな魅力ともなっています。

中国語に訳したものが3種あり、漢訳は7種あったと伝わりますが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』というものが3巻あります。日本では聖徳太子が法華経(ほけきょう)勝鬘経(しょうまんきょう)とともに維摩経の三経に注釈を加えて『三経義琉』(さんぎょうぎしょ)と呼んでいます。

物語は病を得た維摩のもとへ、お釈迦さまの指示により訪ねてくる弟子・舎利弗(シャーリプトラ)、摩訶迦葉(マハーカーシュヤパ)や文殊菩薩たち。そこで繰り広げられる弟子や文殊たちと維摩との真理に関する問答。核心にあるのは「空」「煩悩即菩提」の思想であり、菩薩とはなにか、仏国土とはなにかという大問題が展開されるが、それぞれの場面は芝居仕立てによって読む者・聞く者を強く惹きつけていくのでした。

 

第1巻 仏国品まとめ

 

維摩経の仏の国とはどういうものか、浄土とはどういうものかが説かれ、私たちの住みたい理想の世界はどういうもので、どうしたら作れるか、美しい生活、充実した生活ができるのはどういう場所か、より良い生活のための社会はどう作れば良いのかお釈迦さまがお説きになっています。このお経をお説きになった時、ヴァイシャリー市の郊外にあるアームラさん所有のマンゴー樹園には菩薩たち3万2千と8000人の修行者たちがおられました。数えきれないほどのたくさん集まった中でリッチャヴィ族の青年ラトナーカラ宝蔵)という人が500人の富豪たちと出てきて、それぞれ金銀珊瑚、天蓋(傘)を釈迦に捧げました。

驚くことに釈迦は天蓋を一本の傘にしてしまったのです。500人の傘ですから500本あるはずです。釈迦は全人類にかぶせてしまったのです。これは、500人のリッチャヴィ族の心が釈迦の教えと一つになった全宇宙が釈迦の傘の中に入っていると意味するところでしょうか。

仏教の理想、真理につらぬかれない者はいない全人類がお釈迦さまの傘の中に入っているということなのでしょう。
山も河も地球上の全ての物、三千大千世界の無限の宇宙も天蓋の中に入っているのです。この考えは仏教の理想と教えであり、全人類の考えは違えど釈迦の心はそれらを全て受け入れることができる生命は一つにつらなっている。ということです。
(またこの比喩的表現は維摩経のテーマの元に考えなくてはなりません。)

そこで宝蔵さんがお釈迦さまの前に進み出てこう言いました。

「仏の目は清くして、広やかなること青い蓮のようであり、心浄くして、すでにもろもろの禅定に達しておられる」など、さまざまにお釈迦さまをほめちぎり、絶賛した後にこう言いました。「ここにいる500人の富豪たちは無上の悟りを得たいのです。そして理想世界というもの、仏国土というもの、浄土というものはどのように実現させたらよいものか、具体的な方法を聞かせてください」とお釈迦さまにお願いしたのでした。

お釈迦さまは「清らかな仏国土の建設」というものは、人々の心の中にあるのだ。そこに住む人々の心を浄めることが一番大切なことなのだとおっしゃいました。お釈迦さまの言うことは観念論ではなく、実践方法があるのです。仏国土、理想世界は三心、直心(じきしん)、深心(じんしん)、菩提心(ぼだいしん)この三つの心を基礎に創造されると説いているのです。

直心とはすなおな心、私たちが生まれながらに持っているすなおな心です。
深心とは深い深い奥底にある心です。自分のためばかりでなく、他人のために働くということは、自分のために働いていることと同じだ、つまり自他一如の深い心で他人を思いやる心、それが深心です。
菩提心とは世のため人のためになりたいと切に思う心のことで、単に自分だけ悟りに向かう心のことではないです。

多くの人々がその境地を理解して、この三つの心を持てば浄土がうまれ自然と人々が集まってくる。お釈迦さまはこう言って仏国土の建設方法を示したのでした。そして、この三心を行うには六波羅蜜、四無量心、四摂法、方便、三十七道品、廻向心、八難除、十善これらを実行しなければならないのです。

この時に常々疑問に思っていた弟子の舎利弗が「釈迦の話が本当なら、修行・悟りを得た釈迦の心は清浄無垢なはず、釈迦の世は浄土なはずなのに、この世は浄土ではなく不浄なことばかり目に入るのは何故なんでしょう」

梵天が言いました。「舎利弗の心が分別する心に囚われていて、汚いものばかり見えてしまうのでしょう。また仏の智慧をもっていれば綺麗に見えるのです。汚く見えるのは心が汚れているのです。分別の心に囚われていると、我々も綺麗なものを見ることができず汚いものしか映らないのですよ」と答えました。

釈迦は神通力で奇跡を見せました。地面を足の指で押すと地上が宝石で飾られ美しい世界に変わったのです。

釈迦は「心浄ければ、即ち仏土浄し」
「浄土を得と欲せば、まさにその心を浄くすべし」と説かれました。

 

シナモン庵
清らかな土地、清らかな国、汚れなき世界が誰もが思う理想の世界ですね
悟りに向かう志を持って、人々の幸福を願う心が大切ですね
こし庵

 

第二巻 方便品

 

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